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ぺんぎん村での日々

イラスト・写真・ゲームを中心とした日々

「なぜ」という質問には答えることができない!?

考え方・思考法

「ものごとのつながりを見つけ出すこと」
そうすれば、自然と問いに対する答えが見つかる。

ということで、私がよいと思った問いかけをまとめました。


一方で、問いそのものを考えなくてはいけません。
問いには、必ず答えがあるわけではないし、より適切な問い方が存在するからです。
うまく問いを変換することが必要なのです。

 

 

「なぜ」という問い
ここで、私たちがよく問いかける「なぜ」という問いを考えてみましょう。

 

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たとえば、「なぜモノは落ちるのか?」という問いを考えてみましょう。この問いに対して「引力・重力が存在するから」と答えることは、実は答えになっていません。それは、引力や重力自体が、モノが落ちる場合の説明概念であるからです。

つまり、先ほどの「モノが落ちるのは、引力・重力が存在するから」という答えは、

「モノが落ちるのは、モノを落とす力があるから」

と言っていることと同じであるからです。

 

そもそも引力や重力という説明概念は、モノが落ちるという現象を制御・予測するための説明方法です。科学は、世界を人間が説明しようとする仕方の一つであり、究極的に「なぜそうなっているのか」という問いには答えられません。

万有引力の法則がなぜ成り立つのか?」みたいな問いには答えられないのです。そういった法則は、「これらの法則を認めると、いろいろな現象が説明できる」という位置づけであり、その法則自身については「そうなっているから、そうなっている」としか言えないのです。

 

したがって、「なぜモノは落ちるのか?」という問いは、別の問いに変換されなければ答えることはできません。例えば、「あるモノを落下させるためにはどうすればいいのか」などなど。質問は、常に状況と目的を含んだ形式でなされなければいけません。

 

 

釈迦とカント

 また、問いかけに対する答えについて、

「答える必要があるのかということ」

「あらゆる問いに答えがあるわけではないこと」

も理解しなければなりません。

 

人間の好奇心は、際限がなく、究極の問いを生み出してしまいます。
たとえば、「世界(宇宙)にはじまりはあるのかないのか」という問い。


しかし、宇宙論を少し知っている人は、次のように語るかもしれません。
「ビッグバンが宇宙の始まりで、いまでも宇宙は膨張しつづけているんだぜ」
このように考えると、ビッグバンが始まりなのだから「宇宙にはじまりはある」という結論になるように思えますが、実はそうでもないのです。
「じゃあ、ビッグバンが起こる前ってどうなっていたの?」
と、人間は考えてしまうからです。


「世界(宇宙)に始まりはあるのかないのか」
この難問に2人の天才が立ち向かいました。

 

ひとりは釈迦。


弟子が釈迦に対して、
「世界(宇宙)に始まりはあるのでしょうか、ないのでしょうか?」
と疑問をなげかけました。


これに対して、釈迦は次のように答えました。

 

「こんな難問に対する答えを求めると、あなたはその答えを得る前に命が尽きてしまうでしょう。これはまるで、毒矢で射られているのに、医者を呼ばず、

『この矢はどういう人が射たのか、どんな氏名の人か、背の高い人か低い人か、町の人か村の人か、これらのことがわかるまではこの矢を抜いてはならない。私はまずそれを知りたい』

と尋ねているようなものです。そんなことをしていると、その男の命はなくなってしまうでしょう。

あなたの問いはそれと同じなのです。

もし世界には始まりがあるとかないとか答えることができる人がいたとしても、

あなたには生老病死の苦しみがあり、さまざまな憂いや悩みがあるのです。

あなたの問いは、人間の本当の苦しみや悩みとは関係のないことです。

わたしは説くべきことのみを説きます」


(「毒矢のたとえ」より)

 

すなわち、

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ということです。

 

釈迦は、ただ実用的な考え方をしたということではありません。

「私たちの日々の悩み・苦しみこそ問題にするべきで、

世界の謎ではなく、人間の在り方の方に目を向けなくてはならない」

というストイックな考え方をした結果なのです。

 

 

もうひとりの天才は、カント。


カントも、釈迦と同じように、この難問に対して正面からは解答していません。

カントの哲学を簡単にまとめると、

① 人間は人それぞれの経験の違いによらない、「生まれつきの概念」を持っている。
② その「生まれつきの概念」は、人間固有の経験形式に由来するものであり、人類全体で共有可能なものである。そして、人間がそういう「共有可能な概念」を持っていることは、演繹法(人間なら誰もが正しいと言わざるをえない合理的な思考方法)が成立することの根拠になる。
③ ただし、その演繹法でどんな答えを導き出そうと、それは人間の中だけの真理にすぎない。

(飲茶=著『「今」を生きるためのテキスト 14歳からの哲学入門』より)

(この飲茶さんの本は、面白くかつ分かりやすい語り口で哲学を紹介してくれて、非常におすすめです。)

 

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト

 

 

すなわち、人間が到達可能な真理は、人間固有の経験形式に基づいて生じているのだから、それは必然的に「人間にとっての真理」に他ならないのです。

人間がどんなに頑張ろうが、

「普遍的で絶対的な真理」には到達できないのです。

 

そして、人間が「時間と空間の形式」で世界を認識する生物である以上、この思考形式からは逃れることはできないのです。自分がいかに頑張って自由に考えようとしても、この思考形式に依存した枠組みでしか考えられないし、理解することもできないのです。

 

以上の考えを進めていき、カントは「宇宙に始まりはあるのかないのか」という問いは、「人間には考えられない問い」であることが導いたのです。

まず、世界に始まりがあると仮定してみよう。

宇宙に始まりがあるのならば、宇宙が始まる前の状態、つまり「宇宙がまだ存在していない無の状態」が存在したことになる。しかし、それならば、無から宇宙が生まれた、つまり「原因なく宇宙が生まれた」ということになり、人間には理解できない。

 

次に、世界に始まりがないと仮定してみよう。

宇宙に始まりがないので、宇宙の過去にはいくらでもさかのぼることができ、宇宙には無限の過去があることになる。すると、ある時刻で宇宙が存在するためには、無限の時間が過ぎ去っていなくてはならず、人間には理解不能である。


以上から、宇宙にはじまりがある場合、ない場合、どちらを仮定した場合も、人間の思考上理解不能な結論が導かれ、矛盾が生じる。

したがって、「宇宙に始まりはあるのかないのか」という問題は、「人間には解答不可能な問題である」と結論付けることができる。

 

このように考えて、カントは「宇宙に始まりはあるのかないのか」という問いに対して、正面から答えるのではなく、

「答えようとするのが間違っている」と結論付けたのです。

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釈迦とカントの話をまとめると、
問いかけに対する答えについて
「答える必要があるのかということ」
「あらゆる問いに答えがあるわけではないこと」
を理解しておくと、余計な問題を考えなくて済むはずです。

 

 

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